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4月6日(金) [矛盾について(その612)]

 あの東日本大震災のあとです、有名な宗教学者がこんな発言をしていました、「『なぜあの人は死に、私は生きているのか』と問うと、無常という言葉が浮かんできます。先人は自然の猛威に頭を垂れ、耐えてきた。日本人の心のDNAとも呼べる無常の重さをかみしめています。残念なことですが、私たちの力ではみなさんの悲しみを取り除くことはできません。悲しみを完全に共有することはできないのです。でも、みなさんに寄り添うことはできる。悲しみを抱えたまま立ち直っていくことはできるのです。それは、みなさんと『無常』を受け止めていくことだと思います」。
 「なぜあの人は死に、私は生きているのか」という被災者の哀切な声を聞いて、どこをどうつついたら「無常」ということばが浮かんでくるのか、そして「無常」を受け止めていくことによって悲しみから立ち直っていくことができるとはどういうことか。彼の発言は「なぜあの人は死に、私は生きているのか」と苦しんでいる人にとって、その苦しみを癒すどころか、むしろかき乱しているように思えました。これが仏教だというなら、そんな仏教は無いほうがましだとさえ思いました。
 親鸞の和讃にはこの「無常」の感性、「あはれ」や「はかなさ」の要素がないと吉本は言い、それはなぜかと問うて、こう答えるのです、「親鸞の思想にとって、この世が『五悪』に充ちていながら、『五悪』を肯定して生きるべきものとかんがえられていたとすれば、かれの和讃に現世の〈はかなさ〉や〈あはれ〉や〈嫌悪〉が、強調されてあらわれなかったのは当然である」と。


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