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生死すなはち涅槃なり [『歎異抄』ふたたび(その84)]

(5)生死すなはち涅槃なり


 大乗仏教の極意は「生死即涅槃」あるいは「煩悩即菩提」にあると言われます。生死がそのまま涅槃であり、煩悩がそのまま菩提であるというのですが、さてこれはどういうことか、なかなかピンときません。これがピンとくるのがいわゆる悟りでしょうから、そう簡単にピンとこないのは当然かもしれません。ところが、また正信偈ですが、こう言われます、「惑染の凡夫、信心を発(ほっ)すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」と。信心すなわち本願の気づきがありさえすれば、生死がそのまま涅槃であることがピンとくるというのです。


本願に気づくとは「なんぢ一心正念にしてただちに来れ」(平たく言えば「帰っておいで」)という声が聞こえるということですが、この声が聞こえたとき、実はもうすでに帰っているということ、このことを考えてみたいと思います。ぼくの頭にはフランクルの『夜と霧』が浮びます。アウシュヴィッツの囚人たちの多くは1944年の冬を飢餓と寒さで乗り切ることができずバタバタと死んでいきましたが、著者フランクルは生きのびることができた。彼はそれを分析して(彼は精神科医でした)、自分には待ってくれている人がいるという強い思いがあり、その力が自分を生きのびさせたと述べています。


自分には待ってくれている人がいると思えるのは、「帰っておいで」という声が聞こえているということです。そしてこの声が聞こえているということは、実はもうすでに帰っていることに他なりません。身はまだアウシュヴィッツの収容所で飢餓と寒さのなかにあります、でも、こころはもうすでに故郷ウィーンに帰っているのです。親鸞が善導のことばをもとに「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と言うのはそのことです。如来の「帰っておいで」という声が聞こえている人は、身は娑婆で生死の迷いのなかにありながら、こころはもうすでに「いのちの故郷」である浄土に帰っているのです。


「惑染の凡夫、信心を発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」とは、そういうことです。



タグ:親鸞を読む
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