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すでに与えられている [「親鸞とともに」その76]

(8)すでに与えられている

「わたしの願い」の奥底に「ほとけの願い」が潜んでいることは、たとえば宮沢賢治の次のことばがよく示しています、「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありない」(『農民芸術概論綱要』)。あるいはよく知られた次の詩の一節もそうです、「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」(「雨ニモマケズ」)。

これを見ますと「ほとけの願い」は「わたしの願い」のなかに内在していることが分かりますが、さてしかし、宮沢賢治が「世界がぜんたい幸福になりますように」と願うことができるのも、それに先立って「世界がぜんたい幸福になりますように」という「ほとけ願い」が世界全体にかけられているからであると言わなければなりません。われらに願いがけられているから、われらが願うことができるのであり、その意味では「ほとけの願い」は「わたしの願い」を超越していると言うことができます。かくして「ほとけの願い」は「わたしの願い」のなかに内在しながら、同時に、「わたしの願い」を超越しているということになります。内にありながら、同時に、外にあるのです。

この内在かつ超越という関係は「すでに与えられている」という言い方で表すことができます。「ほとけの願い」はわれらに「すでに与えられています」から、われらの内にあります。しかし「与えられる」のですから、その意味ではそれはわれらの外にあると言わなければなりません。かくして「ほとけの願い」はわれらの内にありながら、かつ外にあることになります。「ほとけの願い」は、「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」から生まれてきたとき「すでに与えられている」のですが(ですから内在していますが)、それは元来「ほとけのいのち」の願いであり、それがわれらに与えられるのです(ですから超越しています)。

(第7回 願うということ 完)


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