SSブログ
『歎異抄』ふたたび(その9) ブログトップ

有縁の知識 [『歎異抄』ふたたび(その9)]

(9)有縁の知識

 悪夢からの目覚めは自らおこすことはできず、誰かに揺り動かされておこります。かくして「幸ひに有縁の知識によらずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや」ということになります。これまで縷々述べてきましたように、われらはどれほどこちらから仏法をつかみ取ろうとしても不可であり、あるときふと仏法につかみ取られている自分を発見するのです。このことはこちらから起こそうとしてできることではなく、まさにある日突然起るのですが、でもそこには必ず「有縁の知識」がいるということ、これを考えておきたいと思います。有縁の知識とは、すでに仏法につかみ取られた人のことで、親鸞にとっての法然、唯円にとっての親鸞です。
 われらは自分で仏法をゲットすることはできず、すでに仏法にゲットされた有縁の知識から伝授されるほかないということですが、ただこの「伝授」ということを何かあるものが師から弟子へ受け渡されるというイメージで捉えますと落とし穴にはまることになります。もういちど仏法は「悟る(他動詞です)」ものではなく、「目覚める(自動詞です)」ものであることを思い返しましょう。もし釈迦が仏法を悟ったとしますと、それを弟子に教え授けることができるでしょうが、しかし釈迦は仏法に目覚めただけですから、それを弟子に「はいよ」と受け渡すことはできません。
 初転法輪を巡る印象的なエピソードは、そのあたりの消息を伝えてくれます。釈迦は苦行を打ち切り菩提樹の下で瞑想をしていたとき、未曾有の目覚めを体験したのですが、それをなかなか人に語ろうとはしませんでした。それを見た梵天は釈迦に「是非あなたの目覚めをみんなにお伝えください」と懇願し、釈迦はついに苦行を共にした元の仲間たちに語りはじめるのです。これを初転法輪と言いますが、釈迦のこの躊躇は奈辺にあったかを考えなければなりません。よく言われるのは、釈迦が気づいた内容があまりに微妙で、それを人に語っても理解してもらえそうにないからということですが、もう一歩ふみ込んで言えば、まだ目覚めを経験していない人に己の目覚めを語ることの困難です。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』ふたたび(その9) ブログトップ