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偈文1 [「『正信偈』ふたたび」その61]

第7回 一心を彰す

(1)  偈文1

龍樹の次は天親です。まずは前半の六句。

天親菩薩造論説 帰命無礙光如来

依修多羅顕真実 光闡横超大誓願

広由本願力回向 為度群生彰一心

天親菩薩、『論』(浄土論)を造りて説かく、「無礙光如来に帰命したてまつる。

修多羅(しゅたら、スートラ、経典のこと)によりて真実を顕して、横超の大誓願を光闡(こうせん)す」。

広く本願力の回向によりて、群生を度せんがために一心を彰(あらわ)す。

天親菩薩は『浄土論』をあらわしこう説いています、「無礙光如来に帰命いたします。

『無量寿経』に依って真実を顕し、弥陀の本願がよこさまに生死の海を超えさせてくれることを明らかにしたいと思います」と。

天親菩薩は、弥陀が衆生を救わんために、本願の力によって信心を回向してくださったということを「一心」ということばで明らかにしているのです。

龍樹は中観派の祖でしたが、天親(後には世親とよばれるようになります)は大乗仏教のもう一方の雄である唯識派の大成者として知られています。龍樹の時も「中観の龍樹がなぜ浄土の教えを」という疑問が起こりましたが、天親についても同じく「どうして唯識の天親が『浄土論』を著して本願の教えを」と思います。龍樹は「無自性空」を説き、天親は「ただ識(こころ)のみ」を説いて、釈迦の縁起や無我の思想をそれぞれの立場で論証しようとし、そして中観派は中国で三論宗、唯識派は法相宗として聖道門の中軸を担う存在となっていくのに、その彼らがどうして念仏の教えをという疑問です。

龍樹のところで述べましたように、このような疑問は聖道門と浄土門はまったく異なるものであるという先入見がわれらになかに植え付けられていることから起ってくると言えます。七高僧の四人目に登場する道綽が、聖道門と浄土門を峻別し、それが善導に受け継がれて、もう両者は水と油のようなものとしてイメージされるようになり、偏依善導の立場をとる法然により日本の浄土教が大成することで、もうこのイメージは確固不動のものとなったと言えます。しかし親鸞は浄土真宗の七高僧のはじめに龍樹と天親を取り込み、聖道門の祖である龍樹や天親を浄土門の祖とすることで、この頑ななセクト主義に風穴を開けたのではないでしょうか。

親鸞にとって聖道門も浄土門も釈迦の仏門として一つであるということです。


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