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摂取して捨てず [「『正信偈』ふたたび」その32]

(2)摂取して捨てず

さて「摂取の心光」と言われ「心光常護」と言われる「心光」とは、目に見える「色光」に対して、目には見えず、心で感じる「ひかり」です。その不思議な「ひかり」に摂取される(包み込まれる)とされるのですが、この大元は『観経』の「真身観」にあります。阿弥陀仏の身相を観るという重要な箇所ですが、そこにこうあります、「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」と。読み下しますと「(弥陀の身体から発せられる)光明はあまねく十方世界を照らし、念仏衆生を摂取して捨てず」となります。親鸞は、この「弥陀の光明は念仏の衆生を摂取して捨てず」というところにもっともはっきりした救い(すなわち往生)のイメージを見ます。

親鸞は第十八願成就文の「かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん(願生彼国 即得往生 住不退転)」という箇所の「すなはち往生を得」についてこう注釈します、「真実信心をうれば、すなはち無礙光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを『往生を得』とはのたまへるなり」(『一念多念文意』)と。真実信心のときが弥陀の心光に摂取不捨されるときであり、そしてそれが正定聚となることであり、さらにそれがまた「往生を得」ることであるとはっきり言っています。

「ほとけのひかり」のなかに「をさめ」とられ「むかへ」とられること、これが救われること、往生することです。この救いのイメージに美しい表現を与えてくれたのが源信です。彼は『往生要集』のなかでこう言っています、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と(親鸞は「正信偈」の後半で、このことばをほぼそのまま偈とします)。「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのひかり」のなかに「をさめ」とられ「むかへ」とられているということです。


タグ:親鸞を読む
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