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よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと [『歎異抄』ふたたび(その114)]

(6)よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと


 この「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」ということばに出あうたびに思い出すことがあります。ぼくがある講座でこのことばを紹介しましたときに、一人の方がさっと手を上げられ、こう言われたのです。もし「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと」だとしますと、そのように言うことも「そらごとたはごと」ということになりませんか、と。その方はこのことばに含まれているパラドクス(背理)に気づかれたのです。


これはいわゆる「嘘つきのパラドクス」と言われるもので、あるクレタ人が「クレタ人はみな嘘つきだ」と言ったとすると、その言明も嘘ということですから、クレタ人は嘘つきかどうか分からないという結論になります。同じように、親鸞が「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと」と言ったということは、その言明もまた「そらごとたはごと」であることになり、結局その真偽のほどは分からないということです。ではこの言明は単なるナンセンスということでしょうか。


すぐ前のところで「生死即涅槃」について、これは一見したところ、あからさまな矛盾だけれども、強いメッセージ性があるのはどういうことかを考えました。そしてこのことばの真意は「生死の気づきと涅槃の気づきはひとつである」ということだと述べました。そう考えますと、これはナンセンスどころか、深い真理を湛えたことばであることが了解できると。いまの「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」も、そこにパラドクスが含まれることから無意味な言明のように見えますが、実は深い真理が湛えられています。


もう一度「こちらからゲットする」と「むこうからゲットされる」の対を持ち出しますと、「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」は、われらがそれを「ゲットした」としますと、たちまちパラドクスに見舞われ、ナンセンスのレッテルを貼られることになります。しかしわれらがそれに「ゲットされた」としますと、話はまったく変わってきます。



タグ:親鸞を読む
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