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一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず [『教行信証』「信巻」を読む(その143)]

(2)一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず

如来がわれらの往生を回向発願してくださるから間違いなく得生できると思えるのであり、「この心深く信ぜること金剛のごとくなる」と言われます。われらの願いは、われらの願いであるより前に実は如来の願いであると感じられるとき、それが実現することに疑いの起こる余地がなくなるからです。だからこそ「一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず」と言われます。ここで思い出されるのが「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」(『歎異抄』第2章)という親鸞のことばです。どうしてこんな途方もないことが言えるのでしょう。それは、親鸞が聞いているのは法然聖人の「ただ念仏して、〈弥陀〉にたすけられまゐらすべし」ということばですが、親鸞にはこれが法然聖人を超えて如来からやってきたことばに聞こえるからです、「ただ念仏して、〈われ〉にたすけられまゐらすべし」と。

さてしかし、聞こえることばが人間のものか、それとも如来からやってきたものかをどのようにして区別できるのでしょう。ことばそのものにそれを識別できる「しるし」がついているわけではありません。それはやってきたことばがわれらの心につける「しるし」と言うしかありません。あることばがわれらのもとへやってきたとき、それがわれらの心に不思議な「しるし」をつけ、それが感じられるとき、これは如来のことばだと思えるのです。ですからこの「しるし」はまったく主観的なもので、それを感じる人には存在しますが、感じない人には影も形もありません。そんな主観的なものを信じるわけにはいかないと言われるかもしれませんが、その「しるし」を感じた人は、誰が何と言おうと、もはや「動乱破壊せられず」です。

この「しるしがつく」ということを、これまで「つかまえられる(ゲットされる)」と言ってきました。われらがことばをつかまえるのではなく、逆に、ことばがわれらをつかまえるのです。親鸞はこれを「もの(人)の逃ぐるを追はへとる」(『浄土和讃』の左訓)と表現しています。われらはあることばに「追はへとられる」、これが如来からやってきたことばである「しるし」です。


タグ:親鸞を読む
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