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割り込み [親鸞最晩年の和讃を読む(その98)]

(5)割り込み

 縁起の法によりますと、あらゆるものごとは他の無数のものごととの縦横無尽のつながり(縁)のなかにあり、それだけとして取り出すことはできません。としますと、理性の無条件の命令に従うこともまた他との縦横無尽のつながりのなかにあり、それだけ単独ではありえないということです。カントの出している例でいいますと、王から偽証を迫られ、もし従わなければ命はないと言われても、理性の無条件の命令によりそれを拒否することは、人間の自由の目覚ましい発露ですが、縁起の法からはこれまた「宿善のもよほすゆゑ」と言わなければならず、われらには不可知の複雑なつながりのなかで、そのようにせしめられたということになります。これは厳密な意味での自由はないということに他なりません。
 さて、この宿業の気づき(宿業は客観的事実ではなく、気づきとしての事実です)は「なさねばならぬ」という倫理に潜む「虚仮」を暴きます。
 電車に乗ろうときちんと列をつくって待っている場面を思い浮かべてください。そこにさっと横から割り込む人がいるとします。先に来て順番を待っているのに、後からやって来て割り込むというのは、他人の時間を盗むことに他なりません。ここはカントの定言命法が「なんじ割り込むなかれ」と命じるところであり、列をなして待っているのが倫理的に善で、横から割り込むのは悪です。そこまではいい、問題はその後です。割り込まれた人のなかにムラムラと怒りが湧き起ります、「われらはきちんと順番を待っているのに、きみはどうしてそんな勝手なことをするのか」と。
 この怒りはきわめて正当な怒りと言わねばなりません。目の前で不正が行われているのに、それに怒りを覚えない方がおかしいでしょう。しかし、もう一歩ふみこんで、どうしてこうも無性に腹が立つのかと考えてみたいのです。そうしますと、見えてくるものがあります。割り込まれて無性に腹が立つのは、実は自分のなかにも割り込みをしたいという欲求があるからではないか、ということです。さあしかし、割り込まれて怒っている人にそんなことを言えば、怒りに油を注ぐ結果になるのは明らかです、「きみは何てことを言うのだ、われらは割り込みをしてはならぬという理性の命令に従っているのであって、割り込みをしたいなどと思っているわけではない」と。

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