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追はへとる [『ふりむけば他力』(その14)]

(9)追はへとる

 親鸞が先の和讃で「摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」と詠んでいますのは、『観無量寿経』に「(阿弥陀仏の一々の)光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」とあるのに依っていますが、この「阿弥陀仏の光明は念仏の衆生を摂取して捨てたまうことはない」というところに他力のイメージがこの上なく鮮明に示されています。
 「阿弥陀」とは無量という意味のサンスクリット「アミタ(amita)」を音訳したものですが(mitaが有量を意味し、それに否定辞のaがついて無量となります)、その阿弥陀(無量)の光明があらゆる有量をそのなかに摂取して捨てたまわずと言われているのです。われら有量のものとしては、あるものを摂取することは、他のものを捨てることにならざるを得ず、あらゆるものを摂取して捨てずとはなりませんが、阿弥陀すなわち無量はありとあらゆるものを摂取し、何ひとつ捨てることはありません。それが無量ということであり(ひとつでも漏れればもう無量ではありません)、かくして「摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」ということになります。
 このように阿弥陀の本願力に、あるいは阿弥陀の光明に「むこうから」摂取不捨され、気づいたときにはもうすでにそのなかにあるということが他力です。われらは「こちらから」さまざまなものを「追はへとろう(ゲットしよう)」と日々懸命に生きているのですが(これが自力です)、それがそっくりそのまま「むこうから」阿弥陀の本願力(光明)に「追はへとられて(ゲットされて)」いるということです(これが他力)。ここでもまた「自力か、さもなければ他力」ではなく「自力で、かつ他力」という関係を確認することができます。
 自力と他力を「こちらから」と「むこうから」というコントラストで考えてきましたが、それはまた「これから」と「もうすでに」というコントラストと重なります。
 まず「こちらから」つかみ取るのは、あくまで「これから」のことであるということ。もうすでに「こちらから」つかみ取ったということはいくらでもあるじゃないかという声が上がるかもしれません。どうして「こちらから」は「これから」であると言うのかと。それは、どれほど「こちらから」つかみ取ったとしても、それで終わりというわけにはいかないからです。「こちらから」あるものをつかみ取ることは、それをつかみ取りつづけることにその本質があります。一旦つかみ取れたとしても、それを失くしてしまえば元の木阿弥ですから、「これから」もそれをつかみ取りつづけねばなりません。かくして「こちらから」つかみ取るのはあくまで「これから」ということになります。

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