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もうすでに与えられている真理とは [正信偈と現代(その67)]

(5)もうすでに与えられている真理とは

 真理はもうすでに与えられていると繰り返し述べてきましたが、一体どんな真理が与えられているのか。
 たとえばユークリッドなら「三角形の内角の和は二直角である」という真理を上げるでしょうか。なるほど、この真理はもうすでに与えられていて、世界はすべてその真理の通りにあり、それ以外にありようはありません(1000年後に二直角が三直角に変化しているということはありえません)。しかし、この真理は、それに気づいたからといって生死の迷いから覚めるわけではありません。
 そこで法蔵の誓願の登場です。「十方の衆生、心をいたし信楽してわがくににむまれんとおもふて、乃至十念せん。もしむまれずば正覚をとらじ」(『無量寿経』の第18願)。
 大胆に約めていえば「われ人ともに救われん」ということで、これが法蔵の願いです。それをさらに六文字にしたものが「南無阿弥陀仏」ですが、これがもうすでに与えられ、われらに届けられています。ぼくにはこれが「帰っておいで」と聞こえるのですが、このことばが聞こえるだけで「その心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)ということになります。
 この「南無阿弥陀仏」こそ、世界はすべてその通りにあり、それ以外にありようがない窮極の真理です。
 どこかから「ちょっと待って」という声が聞こえてきます。「われ人ともに救われん」という願いや「帰っておいで」という呼びかけが真理ってどういうことか、と。たしかに、真理というのは世界がどのようにあるかを正しく述べたものであり、願いや呼びかけには正しいも正しくないもありませんから、それを真理というのは無理があります。そこで、こう言いかえましょう、「生きとし生けるものはみなそのままで救われている」と。この真理がもうすでに与えられていて、われらはそれに気づけばいいだけ。

タグ:親鸞を読む
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