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4月9日(土) [矛盾について(その250)]

 「それは仏の声だ」と言われると、真っ先に「仏ってどこにいるのさ?」と思う。科学の「物語」において、何かが存在するということは、それが時間・空間の中に位置を持つことです。
 時間・空間の中に特定の位置を持つということは、客観的に存在するということです。誰でも、時空のある特定の位置を見れば、そこに何かを認めることができるということ。さてしかし少し反省してみればすぐ分かりますように、「感じる」ことがらはその位置を特定できません。悲しさは「ここに」あると言えるでしょうか。悲しさを感じるのは脳だから、悲しさは脳にあるのでしょうか。そもそも悲しさはぼくらの中に閉じ込められているものではありません。逆にぼくらが悲しさの中に閉ざされているのです。
 科学の「物語」も日常の「感じる」世界を排除できないとしますと、そして「感じる」ことがらについては、時間・空間の中に位置を定めることができないとしますと、「どこにあるか」を言えないからといって、それだけで存在しないことにはなりません。「仏」は確かに「ここにいる」と言うわけにはいきませんが、だからと言ってそんなものは存在しないと排除できないということです。さて、「仏」は悲しさと同じように、その位置を特定できないとしますと、一体どのような存在なのか。これに答えなければまだ翻訳できたことにはなりません。

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