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他力に支配されている [『浄土和讃』を読む(その182)]

(15)他力に支配されている

 確かにヨーロッパの近代科学は自然の諸現象を説明するのに自然を超えた神をもってくることをやめ、あくまで自然の中にその原因を見いだそうとしました。この発想の転換が目覚しい成果を上げ、その結果として今日の豊かな生活があるのは疑えない事実です。天変地異についても、地震は地殻プレートの移動とその衝突により説明されますし、火山の噴火も地下のマグマ活動の変化により解明されるなどなど、自然の力がさまざまな災害を生み出すメカニズムが明らかにされてきました。
 かくして神(々)は世界から追放されたのですが、だからといって自然の力を人間がコントロールできるようになったわけではありません。自然の力がどのように働くか、そのメカニズムが明らかにされたからといって、ある日とつぜん地震に襲われ、火山が噴火し、そして水害に見舞われるのは何も変わりません。われらが他力に支配されていることは、それを神(々)の力と呼ぼうが、自然の力と呼ぼうが同じことです。
 念のために言っておきますが、われらは他力に支配されているからといって、われらに自由(自力)がないということにはなりません。あるムスリムのウェイターが皿を落として割ってしまったとき、「これはすべてアッラーの思し召しであって、そうなるべくしてなっただけだ」と言って責任を逃れようとしても、誰もそれを認めないでしょう。「すべてがアッラーの思し召しであっても、きみは皿を落とさないように注意するべきだったのであり、皿を割った責任はきみにある」と反論するに違いありません。
 他力に支配されていると言うとき、われらの眼はどうしても「禍」の方に向かいますが、見えない力がさまざまな「福」をもたらしてくれているのは言うまでもありません。福は自力で生み出し、禍は他力がもたらすと思うのは人間の傲慢と言わなければなりません。ある日とつぜん太陽がなくなると、途端にわれらの生存が不可能になることを考えるだけで明らかなことです。

タグ:親鸞を読む
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