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親鸞の和讃に親しむ(その85) ブログトップ

五濁の時機にいたりては [親鸞の和讃に親しむ(その85)]

(5)五濁の時機にいたりては

五濁の時機にいたりては 道俗ともにあらそひて 念仏信ずるひとをみて 疑謗破滅さかりなり(第13首)

五濁の時機となったれば、道俗ともに争って、念仏するを見つけては、疑い謗りあだをなす

法然のはじめた専修念仏の運動には繰り返し激しい弾圧が加えられてきました。主だったものとしては承元の法難(1207年、親鸞35歳、このとき親鸞は越後に流罪となりました)、嘉禄の法難(1227年、親鸞55歳、このとき親鸞は関東にいて難を逃れています)がありますが、いずれも興福寺や延暦寺が動きを起こし、それに朝廷が乗るというかたちで、まさに「道俗ともにあらそひて」過去に例を見ないような弾圧がなされました。どうしてこれほどまでに本願念仏の教えは目の敵にされたのか、これを考えることはこの教えの本質に関わります。のちの日蓮に対する法難は政治的弾圧(日蓮の政治批判に対する弾圧)という色彩が濃いものですが、念仏に対する弾圧はもっと根深いものがあったと言わなければなりません。本願念仏の教えは社会秩序の根幹を揺るがす危ういものと捉えられたということです。

それをひと言でいえば、人は弥陀の本願の前にみな平等であるという思想です。是非や善悪という価値秩序は人間が自分の都合で仮に設けているものにすぎず、弥陀の本願はそんな尺度に関わりなく、あらゆる衆生を平等にすくい取るというのです。「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」はそれをもっとも過激な形で表明したもので、これは人はみなひとしなみに悪人であり、それに気づいたものはそのまま摂取不捨の利益にあづかるという思想です。この思想は貴と賤、善と悪という上下の関係に基礎をおいている道俗の社会秩序を根底から否定するものと言わなければなりません。それを感じた僧俗の権力者たちは、こんな危険な動きは芽のうちに摘み取っておかなければ大変なことになると考えたに違いありません。かくして空前絶後の弾圧が繰り返し加えられ、「念仏信ずるひとをみて 疑謗破滅さかりなり」となります。


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