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5月17日(火) [矛盾について(その287)]

 芹沢俊介氏の『「存在論的ひきこもり」論』には、同僚との感情の行き違いから孤立してしまい、居場所をなくした会社員が、朝起きるのがつらくなり、しだいに休み勝ちになって、ついには自室に引きこもってしまった例が上げられていますが、ここで「居場所」ということばが重要な意味をもっています。「する」ことに関わるのではなく、「いる」ことに関わることが、このことばによって示唆されているのです。
 ぼくもこれまで「居心地が悪い」とか「居場所がない」ということばをよく使ってきました。ただその場合の「いる」が「どこかにいる」のか、それとも「この世にいる」のか、それを区別することが大事です。「どこかにいる」でしたら、そこに居場所がなくても別のところにあるかもしれません。でも「この世にいる」でしたら、もうどこにも居場所がありません。
 芹沢説ではここが曖昧です。「ある自己」と言うのですから、それはあくまで〈自分〉の「いる」こと、したがってどこか特定の場所に「いる」ことであり、「居場所がない」というのも、どこか特定の場所(今の会社)に自分の居場所がなくなったということです。ならばそれ以外のところ(別の会社)に居場所を求めればいいのであって、自室に引きこもることはないとも言えます。
 しかしその一方で、芹沢氏が「する自己」と「ある自己」を区別する動機はよく理解できます。人間を「する自己」とだけ捉えますと、引きこもりは「あってはならないこと」で、できるだけ速やかにその状態から抜け出さなければならない、という世間の否定的な眼差しに抗することができないのです。

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