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「ほとけのいのち」のふところのなかで [『教行信証』「信巻」を読む(その31)]

(11)「ほとけのいのち」のふところのなかで


   娑婆という世界意識とは、ひたすら「わたしのいのち」を生きていると意識することであり、そこに広がる世界が娑婆です。一方、浄土という世界意識とは、「ほとけのいのち」のふところのなかで生かされていると意識することであり、そこに広がる世界が浄土です。この二つの世界意識はコインの表と裏のような関係にあり、娑婆という世界意識の裏には浄土という世界意識があります。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」を生きるままで、すでに「ほとけのいのち」に生かされているのです。この立場では、浄土に往生するとは、このように「わたしのいのち」のまま「ほとけのいのち」のふところのなかで生かされていると気づくことを意味し、それは「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念する」そのときのことです。本願力のはたらきがわが身の上に生き生きと感じられたそのとき往生が実現するのです。


さて親鸞はどちらの立場にたっていたでしょうか。さいわい親鸞自身が「即得往生」について解説してくれている文がありますので、それを見てみましょう。「〈即得往生〉といふは、〈即〉はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また〈即〉はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。〈得〉はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無礙光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを〈往生を得〉とはのたまへるなり」(『一念多念文意』)。親鸞にとって往生するとは真実信心を得たときに正定聚の位につくことであり、それは「無礙光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざる」ことを意味することが明らかです。


「ほとけのいのち」のふところのなかに包まれて生かされていると感じること、これが正定聚の位につくことであり、そしてそれが取りも直さず往生することです。身は娑婆にありますが、「その心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)のです。


                                                       (第3回 完)



タグ:親鸞を読む
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