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『歎異抄』を読む(その106) ブログトップ

8月30日(木) [『歎異抄』を読む(その106)]

 「あの世を信じる」人は、あの世が存在することがこの世を生きるに当たって必要なのではないでしょうか。ですからあの世なんかないかもしれないなどと言われると、ムキになって反論するのだと思います。
 でも「あの世を想像する」だけの人は、あの世がないかもしれないのはもとから織り込み済みですから、そんなふうに言われても痛くもかゆくもありません。ただ「あの世があったらいいな」と夢想しているだけなのです。
 と考えてきますと、両者の違いは結局この世をどう生きているかに行き着くようです。
 「この世を生きてきてよかった」と思うかどうか。
 そう思う人は、「あの世があったらいいな」とは思うでしょうが、是非ともなければならないわけではありません。なければなくていい。もう「この世を生きてきてよかった」のですから、先のことをあれこれ思い煩うことはないと思うのです。福音書の「明日のことを思ひ煩ふな。明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて足れり」という心境になるのではないでしょうか。
 それに対して「この世を生きてきてよかった」と思えない人はどうか。こんなふうではない明日(あの世)が是が非でもなければなりません。かくして「あの世を信じる」必要が出てくると思うのです。
 さて、「生きてきてよかった」と思えるというのは「生きる意味がある」と感じられるということです。そして「生きる意味がある」と感じられるときは「死ぬ意味もある」と思える。
 そうだろうかという疑問の声が聞こえてきます。

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