SSブログ
『教行信証』精読2(その46) ブログトップ

本文7 [『教行信証』精読2(その46)]

(14)本文7

 次は元照の『観経義疏』からの引用です。

 「慈雲法師 天竺寺の遵式(じゅんしき) のいはく、ただ安養の浄業捷真(せっしん、近道)なり、修すべし。もし四衆(比丘・比丘尼・優婆塞(在家の男性)・優婆夷(在家の女性))ありて、また速やかに無明を破し、永く五逆・十悪重軽等の罪を滅せんと欲はば、まさにこの法を修すべし。大小の戒体(大乗・小乗の戒律)、遠くまた清浄なることをえしめ、念仏三昧を得しめ、菩薩の諸波羅蜜を成就せんと欲はば、まさにこの法を学すべし。臨終にもろもろの怖畏(ふい)を離れしめ、身心安快(あんけ)にして衆聖現前し、授手接引せらるることを得、はじめて塵労(煩悩)を離れて、すなはち不退に至り、長劫をへず、すなはち無生を得んと欲はば、まさにこの法等を学すべしと。古賢(慈雲のこと)の法語によく従ふことなからんや。以上五門、綱要を略標す。自余はつくさず。くはしく釈文にあり。開元の蔵録(開元釈教録のことで、唐代に成立した仏教典籍の目録)を案ずるに、この経(観経)におほよそ両訳あり。前本はすでに亡じぬ。いまの本はすなはち畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)の訳なり。僧伝にいはく、畺良耶舎ここには時称といふ。宋の元嘉のはじめに京邑(きょうおう、都)にはじめたり(原本では「京邑にいたる」)。文帝のとき」と。
 慈雲の讃にいはく、「了義のなかの了義なり。円頓のなかの円頓なり」と。以上
 大智 元照律師なり 唱へていはく、「円頓一乗なり。純一にして雑なし」と。以上

 (現代語訳) 慈雲法師はこう言っています。安養浄土への往生を説く教行がもっとも近道ですから、これを修すべきです。出家も在家も、すみやかに心の無明を破り、五逆・十悪など、これまでの重軽の罪を滅したいと思えば、まさにこの念仏の法門を修すべきです。大乗・小乗の戒律をたもち、念仏三昧を得て、菩薩のさまざまな行を修めようと思うなら、まさにこの法を学ぶべきです。臨終にさまざまな怖れをはなれ、身も心も安らかになり、多くの仏菩薩に手を取られて、すぐに煩悩をはなれて不退に至り、ただちに無生の悟りを得ようと思うなら、この法を学ぶべきです、と。いにしえの聖賢のことばに従うべきです。以上、五門に分けて観経の要点を述べてきました。他の細かいことは、下の文義を釈するところで述べましょう。『開元釈教録』によりますと、観経には二訳あり、前の訳はすでになくなっていて、いまの本は畺良耶舎の訳です。『高僧伝』によりますと、畺良耶舎は中国では時称といい、劉宋の元嘉のはじめに都に来られました。文帝のときです。
 慈雲法師は念仏の法門をほめたたえて、真理をもっとも明らかに説いたものであり、完全な悟りにすみやかに至ることのできる教えであると言われています。
 大智律師・元照はこう言われます、念仏の教えは完全な悟りにすみやかに至ることができるただひとつの乗り物であり、純粋でまじりけがないと。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その46) ブログトップ