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さるべき業縁のもよほさば [『歎異抄』ふたたび(その107)]

(8)さるべき業縁のもよほさば


 最後の第3段です。


 「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人は仰せ候ひしに、当時は後世者(来世の往生を願うもの)ぶりして、よからんものばかり念仏申すべきやうに、あるいは道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、道場へ入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相を外(ほか)にしめして、内には虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよほすゆゑなり。されば善きこと悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ、他力にては候へ。『唯信鈔』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なればすくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。おほよそ悪業煩悩を断じ尽してのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなはち仏に成り、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なく(甲斐なく)やましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩・不浄具足せられてこそ候うげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪かほこらぬにて候ふべきぞや。かへりて、こころをさなきことか。


 第13章で唯円が言おうとしていることは、ここに出てくる親鸞のことば「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」ひとつに収まります。だから「善きこと悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらす」べしと言うのです。ところがこの「悪をもおそるべからず」に対して、それは本願ぼこりだと難癖をつける人たちがいて、その人たちは「よからんものばかり念仏申すべきやうに」言い、また「道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、道場へ入るべからずなんどと」言うのですが、唯円はそれを「賢善精進の相を外にしめして、内には虚仮をいだけるもの」と批判しているのです。



タグ:親鸞を読む
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