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「これから」と「もうすでに」 [『歎異抄』ふたたび(その28)]

(5)「これから」と「もうすでに」

 では本願念仏を「信じる」とはどういうことか。「知る」が「これから」に関わるのに対して、「信じる」は「もうすでに」を含意しています。
 普通に何かを「信じる」と言うときは、これは信じていいものかどうかをしっかり吟味し、その上で信じるものです。その手続きを経ずに信じるのは危ういことこの上ない。この意味では「知る」と変わりません。すぐ上で言いましたように、何かを「知る」というのは、つまるところ、それが自分に利益をもたらすものかどうかをじっくり吟味するということですが、この「信じる」も、何かを信じることが自分にとって意味のあることかどうかを見極め、その上でイエスということです。
 しかし本願念仏を「信じる」のはまったく様子が異なります。信じようかどうか吟味するも何も、気がついたときには「もうすでに」信じてしまっているのです。いま「気がついたときには」と言いましたが、「信じる」は「気づく」と同じであることが了解できます。本願念仏を「信じる」というのは、本願念仏に「気づく」ということに他なりません。そして「気づく」は「もうすでに」を伴っています。何かに気づこうとして気づくのではありません、あるとき「もうすでに」気づいてしまっているのです。
 ぼくはこの辺りの消息を説明するのに、しばしば「門に入る」というメタファを使います。門に入るとき、普通は門を前に見ています。そして、さああの門に入ろうかどうかと思案し、よし入るぞと決意して入ります。ところが本願念仏の門は、気がついたら「もうすでに」入ってしまっているのです。気がついたら門は「もうすでに」後ろにある。これが本願念仏を「信じる」ということです。この「信じる」には迷いも疑いも入る余地がまったくありません。
 「これから」のことは、どれほど確かであると思っても、多少の迷い、いくばくかの疑いがついて回ります(これまでの気象データから判断する限り、明日は100%の確率で晴れですと言われても、これまでになかったことが明日起る可能性は誰も排除できません)。しかし「もうすでに」のことは天地がひっくり返っても動きません。「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」ということばはここから出てきます。

タグ:親鸞を読む
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