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すべて大海に会す [『教行信証』精読(その136)]

(13)すべて大海に会す

 親鸞は『大経』と『観経』について、前者が真実の教であり(「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」)、後者は方便の教と見ました。両者を分けるポイントはいくつかありますが、そのひとつが「往生のとき」です。親鸞のみるところ、『大経』は「信心のさだまるとき往生またさだまる」(『末燈鈔』第1通)と説いており、したがって「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(同)です。『観経』が臨終の来迎を説いているのは方便にすぎず、往生は本願に遇えたそのときにはじまるのです(「さだまる」とは「はじまる」ということです)。ここに親鸞浄土教の眼目があると言えます。
 死のかなたに浄土を仰ぎみるのではなく、「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)のです。
 さて、「万川長流に草木ありて、前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず」にもどりますと、生老病死をたどる万川長流の流れ着く先に無量寿仏国があり、仏法を信じることによって、いのち終わったあと、その国に入ることができるのでしょうか。そして仏法を信じない人は、いのち終わったあと、また生死輪廻を繰り返すことになるのでしょうか。もしそうだとしますと、万川長流は「すべて大海に会す」とは言えなくなります。仏法を信じる人と信じない人とで違う海に入ることになります、無量寿仏国という海と、生死輪廻の海と。
 そうではないでしょう、「万川長流に草木ありて、前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず」、すべて例外なく「ほとけのいのち」という大海に入るのです。それは仏法を信じようが、信じまいが変わりありません。ただ、みなことごとく「ほとけのいのち」の海に入るというこの一点に気づいているかどうか。それに気づきさえすれば、「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」ことになります。生老病死の流れの中にありながら、その心はすでに浄土に遊ぶことができるのです。しかし、気づかなければ、その人は依然として生死輪廻の迷いの中を彷徨うことになります。浄土も穢土も来生ではなく、今生ただいまのことです。

                (第10回 完)

タグ:親鸞を読む
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