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煩悩にまなこさへられて [親鸞の和讃に親しむ(その74)]

(4)煩悩にまなこさへられて

煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり(第95首)

煩悩まなこを遮って、摂取のひかり見えないが、大悲はうまずたゆまずに、いつもわが身を照らしくる

光には二種類あり、眼に見える光と、見えないが気づくことのできる光があります。太陽や月の光は眼に見え、その光源も見ることができますが、「摂取の光明」はただその存在に気づくことができるだけです。太陽や月の光を見ることができるのは、われらがそれらと同じ空間にいるからですが、「摂取の光明」はわれらのいる空間の外にありますから、それを見ることはかないません。われらは「わたしのいのち」という牢獄の中に閉ざされていますから、その外にある「摂取の光明」を見ることはできないのです。でもそれに気づかされることがある。「摂取の光明」は、それに気づいてはじめて存在するようになるのです。それは「気づきという光」です。「わたしのいのち」という牢獄が「摂取の光明」を見えなくしているのですが、この「気づきという光」のおかげで「わたしのいのち」という牢獄に気づくことができるのです。

「摂取の光明」に気づくことと「わたしのいのち」への囚われ(我執)に気づくことはひとつです。

「わたしのいのち」という牢獄に閉ざされていることに気づくことができるのは、そのことに早く気づくようにと「摂取の光明」が「ものうきことなく」「つねにわが身をてら」してくれているからです。「わたしのいのち」という牢獄に閉ざされていることに早く気づけよという願いが「摂取の光明」という形でわれらにずっとかけられてきたのです。ところが、これまでそれにまったく気づかずじまいだった。そのことにようやく気づくことができたとき、それによって牢獄から脱出できるわけではないものの、牢獄に閉ざされたままで、「ほとけのいのち」に「摂取不捨」されていることに思い至ります。かくして「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」に包みこまれ生かされていることを慶ぶ身となるのです。


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