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金剛の信心ばかりにて [はじめての『高僧和讃』(その147)]

(17)金剛の信心ばかりにて

 詳しい説明は省かざるをえませんが、善導の時代に、『観経』下品下生段にわずか十声名号を称えるだけで往生できると書いてあるのは、実際に往生できるのは遠い将来だけれども、愚かな凡夫に仏縁をむすばせる方便としてそう説いているのだと主張する人たちがいたのです。その人たちを摂論家(無着の著した『摂大乗論』にもとづく学派)といい、そのような説を別時意説(別時とは遠い将来のこと)とよびます。その説の眼目は、十念の念仏で往生できるという教えには願だけがあり行が伴っていないから(唯願無行)不十分であると説くところにあります。
 どんなことも努力した分だけ結果が得られるのであり、努力もしないで甘い蜜だけ吸おうというのは虫がよすぎるということ。これは常識にあっています。往生を願うだけで何の行もしないのではその願いはかなえられないと考えるのはごく自然でしょう。さて、この批判に善導はどう答えたか。これまた詳細は省きますが、要するに念仏はただ願だけではなく、行を伴っているのだ、ということです。「いまこの観経のなかの十声の称名は、すなはち十願十行ありて具足す。いかんが具足する。南無といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちこれその行なり。この義をもってのゆゑにかならず往生をう」。
 「阿弥陀仏といふはすなはちこれその行なり」というところが分かりにくいですが、善導が言いたいのは、本願に「弥陀の名号を称えるものを往生させよう」とあるのだから、阿弥陀仏の名を称えることは本願にかなった行に他ならない、ということです。本願にそう書いてあるのだから、たった十声念仏するだけで往生できるに違いないではないか。経に書かれている仏のことばを信じるべきであり、人の言うことに惑わされてはならない、と。

タグ:親鸞を読む
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