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『教行信証』「信巻」を読む(その109) ブログトップ

これ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり [『教行信証』「信巻」を読む(その109)]

第11回 チッタ・プラサーダ(信楽)

(1) これ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり

至心釈につづいて、次は信楽釈です。

つぎに信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑(ぎがいけんぞう)あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪(迷いの世界)に沈迷し、衆苦輪(多くの苦しみ)に繋縛せられて、清浄の信楽なし。法爾(ほうに、本来)として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇(ちぐう)しがたく、最勝の浄信獲得(ぎゃくとく)しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねに法財を焼く。急作急修(きゅうさきゅうしゅ)して頭燃をはらふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽(こけてんぎ)の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに。まさしく如来、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、疑蓋まじはることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無礙広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

先に至心とは如来の真実心であり、それがわれらに回施されるのであると述べられた後、次に信楽について、これもまた如来の心であり、それがわれらに回施されてわれらの信心になると言われます。

 この文は三つの段に分けることができます。第一段は「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり」まで、第二段は「しかるに無始よりこのかた」から「これかならず不可なり」まで、そして第三段は「なにをもつてのゆゑに」から終わりまでです。第一段では「信楽とは如来の心である」と言われ、第二段で「われらにはもとより清浄の信楽がない」とされ、そして第三段で「だから如来は浄信をわれらに回施された」と述べられています。


タグ:親鸞を読む
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