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まことあることなし [『教行信証』「信巻」を読む(その48)]

(7)まことあることなし


ここで「ちょっと待って」という声がかかることでしょう。これまで講座のなかでこの話をしますと必ずと言っていいほど、「そうは言われますが」という抗議の声が上がりました。「自分の内に虚仮の心があるのはその通りですが、しかし“みなもつて”とは言い過ぎではないでしょうか。たまには善いことをすることもあるのではないですか」と。ある方は「親鸞というお方はどうしてこうも人間を悪くとるのでしょうね」と呻き声のような感想を漏らされました。まさしくこの方が言われるように、親鸞は人間の心の邪悪をじっと見つめている人と言わなければなりません。


ここで大事なことは、親鸞が自分自身でそのように見立てているのではないということです。それはどこかから親鸞に聞こえてきたということです、「お前の心は、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」と。親鸞はこの「こえ」を前に「まさしくその通りです」とうな垂れているのです。これまた思い出すことで、これまでも紹介したことがありますが、「みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」ということばについて、ある方がこんな疑問を出されました。もしそうだとしますと、親鸞がそのように言うこと自体が「そらごとたはごと」にはなりませんか、と。おっしゃる通りで、もし親鸞が自身のことばとしてこれを発言しているとしますと、ここにはどうしようもない撞着があります(「自己言及のパラドクス」と言います)。


ここから言えることは、これは親鸞自身のことばではないということです。親鸞の口から出たことばであるのは間違いありませんが、それは親鸞がどこかから聞こえてきた「こえ」を口伝えに述べているにすぎないということです。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」は否応なく真実のことばと言わなければなりませんが、この真実は親鸞自身のものではなく、如来から賜ったものであるということ、ここに他力のもっとも深い意味があります。そしてもうひとつ言えば、「(煩悩具足の凡夫に)まことあることなし」という気づきは、「ただ念仏のみぞ(ただ如来のみぞ)まことにておはします」という気づきとひとつです。われらの虚仮と如来の真実はコインの表と裏の関係にあります。



タグ:親鸞を読む
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