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願力成就の報土 [はじめての『高僧和讃』(その136)]

(6)願力成就の報土

 次の和讃です。

 「願力成就の報土には 自力の心行いたらねば 大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり」(第72首)。
 「願力による浄土には、自力によりて至りえず、聖人とてもみなともに、弥陀の弘誓にのりてゆく」。

 まずことばの解説から。「願力成就の報土」とは「本願力によりたてられた浄土」ということ、「自力の心行いたらねば」とは「自力のこころでは浄土に往くことができない」ということ、「大小聖人みなながら」とは、「大乗の聖人である菩薩でも、小乗の聖人である声聞でもみんな」ということで、全体として、本願他力でたてられた浄土へはたとえ聖人であっても他力でしか往くことができないということになります。
 「願力成就の報土」と言われる、その報土=浄土とはいったい何か。この浄土教にとってもっとも根本の問いに改めて答えてみたいと思います。
 ことばそのものがぼくらに誤ったイメージを懐かせることは、前に(第7回、7)「往生」ということばについて見てきましたが、「浄土」ということばについても同じことが言えます。「浄らかな国土」という字のつくりから、どこかにこの穢れた世界とはまったく異なる清浄な世界があるというイメージが生まれるのはごく自然です。そして「どこかにある」ということは、空間的に特定の位置にあると受けとるのは当然のことです。さらに、いまこの穢土にいるのですから、同時に浄土にいることはありえず、浄土に往くとしても、それは「これから先」ということになります。かくして「いのち終わったのちに」阿弥陀仏に迎えられて「西方十万億土」にある浄土に往生するという確固不抜の信念がかたちづくられていくのです。

タグ:親鸞を読む
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