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欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず [『教行信証』「信巻」を読む(その101)]

(5)欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず

上の仏意釈に誤りがないことを示すために経文が引かれます。まずは『大経』から。

ここをもつて『大経』にのたまはく、「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想(欲覚・瞋覚・害覚のもとになるもの)を起さず。色・声・香・味の法に著せず。忍力成就して衆苦をはからず。少欲知足にして染・恚・痴(ぜんいち、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒)なし。三昧常寂にして智慧無礙(むげ)なり。虚偽諂曲(こぎてんごく、いつわりとへつらい)の心あることなし。和顔愛語(わげんあいご)にして、こころをさきにして承問(じょうもん)す。勇猛精進にして志願倦きことなし。もつぱら清白(しょうびゃく、無漏ということ)の法を求めて、もつて群生を恵利しき。三宝を恭敬(くぎょう)し、師長に奉事しき。大荘厳(福徳と智慧の功徳が身を飾ること)をもつて衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむ」とのたまへり。以上

この文は法蔵菩薩が世自在王仏を前に四十八願を立てたのちに、「不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植(しゃくじき)」したことが説かれるなかに出てきます。すなわち法蔵菩薩は五劫思惟の願を成就するために兆載永劫の修行をするのですが、そのときの様子がここに描かれているのです。先の仏意釈において親鸞が「ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり」と述べていたことが経ではこのように説かれているのです。法蔵菩薩の兆載永劫の修行は隅から隅まで清浄なものであり、真心からなされたものであるということです。

かくして、われらは「無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし」であるのに対して、法蔵菩薩は「三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし」という鮮やかなコントラストが浮かび上がります。


タグ:親鸞を読む
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