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「『証巻』を読む」その17 ブログトップ

本文3 [「『証巻』を読む」その17]

(6)本文3

『論註』の第三と第四の文です。

荘厳(しょうごん)眷属(けんぞく)功徳(くどく)成就(じょうじゅ)(国土荘厳十七種の第十三荘厳)とは、偈に、〈如来(にょらい)(じょう)()(しゅ) 正覚(しょうがく)()化生(けしょう)(如来浄華の衆は、正覚の華より化生す)〉といへるがゆゑにと。これいかんぞ不思議なるや。おほよそこれ雑生(ざつしょう)の世界には、もしは胎もしは卵もしは湿もしは化、眷属そこばく(多数)なり。苦楽(くらく)万品(まんぽん)なり。雑業(ぞうごう)をもつてのゆゑに。かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし(みな如来正覚の仏坐に化生する)。同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり。眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや」と。

またいはく、「往生を願ふもの、本はすなはち三三の品(上品上生から下品下生まで九種類)なれども、いまは一二の(しゅ)なし。また淄澠(しじょう)(淄水と澠水という二河)の一味なるがごとし。いづくんぞ思議すべきや」と。

第四の文は、第三の文の少し後(十七種国土荘厳の第十六荘厳)に出るものですが、同じ趣旨です。娑婆世界ではひとり一人みな異なり(「三三の品」)、「苦楽万品」ですが、安楽国土では、みな弥陀の正覚の華のなかに生まれますから「四海のうちみな兄弟」であり、それは、淄水と澠水の水は異なっても海に入れば「一味」となるようなものであると説かれます。

この文においても注意が必要なのは、こちらに娑婆世界があり、あちらに安楽国土があって、こちらではひとり一人みな違っていたのに、あちらに往くと一様になる、ということではないということです。くどいようですが、往生とはこちらからあちらに往くことではありません、「いまここ」でこれまでとは異なる新しい生がはじまるということです。そしてそのとき、これまでは「三三の品」であったひとり一人が、「四海のうちみな兄弟」と思えるようになるのです。

この文を読んで頭に浮ぶのは『歎異抄』第5章の「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟なり」という親鸞のことばです。これは「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」という驚くべきことばにつづくもので、その理由として言っているのですが、そのとき親鸞は『論註』のこのことばを思い浮かべていたのではないでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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