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見えないつながり [『ふりむけば他力』(その43)]

(5)見えないつながり

 本章の冒頭で親鸞は「宿縁」ということばで釈迦の言う「縁起」と浄土教の「他力」をひとつのものとして表現していることを見ました。そしてわれらはそれを「ご縁」ということばで日常的に言い表していることに注目し、「ご縁」の不思議さから何が汲みとれるかを考えてきたわけです。まず「ご縁」とはわれらが「たまたま」遇うことができる「見えないつながり」のことであり、それに遇うことができてはじめて姿をあらわすということ、しかし遇ってみると、われらはもうとうの昔からそのつながりのなかにあったことに思い当たることを見てきました。
 ここであらためて確認しておきたいのは、「ご縁」は不思議なつながりを意味するとともに、そのつながりに遇うことも意味しているということです。
 「いいご縁に恵まれまして、ありがたいことです」というのは、「すばらしいつながりがありまして、ありがたい」ということですが、同時に「すばらしいつながりに遇うことができまして、ありがたい」と言っているのです。ここに「ご縁」は、その「ご縁」自身がむこうからやってこない限り、その存在を知ることができないことがはっきりと示されています。ここに他力の秘密がくっきりとあらわれています。本願他力とは「見えないつながり」であり、そのなかでわれらは生かされているにもかかわらず、それはどれほど「こちらから」近づこうとしてもかなわず、あるとき思いがけず「むこうから」やってくるということです。
 ここでもう一度『教行信証』「序」の「ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生(たしょう)にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫(おくこう)にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」ということばに戻りますと、この文で「弘誓の強縁」は、ひとつに「値ひがたい」ということ、もうひとつに、それに遇うことができたことは「慶ぶ」べきことであると言われています。このふたつは切り離しがたくつながっているのですが、まずは遇うことが「難しい」という点に焦点を当ててみたいと思います。これは浄土の教えにおいてしばしばお目にかかる題目であり、たとえば『無量寿経』の末尾にはこうあります、「もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん」と。

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