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自分あってのものだね [『歎異抄』を聞く(その95)]

(8)自分あってのものだね

 弱みを隠そうとするのがどんなに苦しくても、弱みを知られてしまうことに比べればまだしもと思う。それは、警察の手から逃げ回るのがどんなに大変でも、逮捕されてしまうのに比べればまだましと思うのを同じです。先ほど言いましたように、ちっぽけな自分を守ろうとしているのです。ぼくの場合、「オレは一端の教師である」というしがないプライドを守ろうと必死になっています。
 では、どうして自分の弱みを周囲にさらけ出すことができるのでしょうか。どうして親鸞は「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」などと正直に言うことができたのでしょう。言うまでもありません、「帰っておいで」の声が聞こえているからです。「そのまま帰っておいで」という声がするから、ありのままの自分をさらけ出すことができるのです。
 弱みを隠そうとするのはちっぽけな自分を守ろうとするからと言いましたが、それは、どんなにちっぽけであっても、自分が何より大事だと思うからに他なりません。「いのちあってのものだね」と同じく「自分あってのものだね」で、自分がすべての基点となっています。そして人それぞれに「これが自分」という自分像(プライド)をつくっていますから、それを守ろうとやっきになるのです。
 さてしかしほんとうに自分が基点でしょうか。デカルトが言うように「われあり」からすべてがスタートするのでしょうか。デカルトは「われあり」をもとに「神あり」を証明しようとしました。金子大栄氏も若い頃、浄土真宗がもっと多くの人に受け入れられるようになるためには、何としても阿弥陀仏の存在をみんなが納得するように証明しなければならない、それを自分がやらなくて誰がやる、という自負をもっていたとどこかで言われていました。しかしあるとき、それはとんでもない勘違いであると気づいた。話はあべこべで、自分が阿弥陀仏の存在を証明するのではなく、阿弥陀仏が自分の存在を証明してくれるのだと気づいたのです。

タグ:親鸞を読む
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