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信心二心なきがゆゑに一念といふ [「信巻を読む(2)」その21]

(8)信心二心なきがゆゑに一念といふ

仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」とありますのは、「仏願の生起本末」を聞くだけでなく、それを通して「仏願そのもの」の「こえ」が聞こえて、それにゲットされているからです。ただ「仏願の生起本末」を聞くだけでしたら、それに対して疑心がおこることはいくらでもあるでしょう。いやむしろ疑心がおこるのが普通というべきです。しかし「仏願の生起本末」を聞くことを通して「仏願そのもの」の「こえ」が聞こえてきますと、それがそのまま仏願信受となります。このように聞と信がひとつになっていますから(聞即信)、そこに疑いのおこる余地はまったくありません。

それにつづいて「すなはち本願力回向の信心なり」とあるのも同じことを言っています。本願力回向の信心とは、本願がそのまま信心となっているということで、本願と信心はひとつであるということです。

そしてその後さらに「一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく」と言われます。先には「一念」とは「信楽開発の時剋の極促」のことと言われていましたが、ここでは「信心二心なき」こととされます。前者は信心の「ときのきはまり」を意味し、後者は信心の「ふたごころなきこと」を意味します(前者は一念の時剋釈、後者は信相釈とよばれます)。「ふたごころなき」とは、「ほとけの心(願心)」と「われらの心(信心)」がひとつであるということです。ですから「これを一心と名づく」と言われるのです。

そして最後に「一心はすなはち清浄報土の真因なり」と締めくくられます。「ほとけの願心」と「われらの信心」が「一心」となっているのですから、その「一心」が「清浄報土」への往生の真因となるのです。いや、もう一歩ふみ込んで、「一心」と「往生」はひとつであると言うべきでしょう。「一心」であることが、取りも直さず「往生」しているということです。これが成就文に「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と言われている意味です。


タグ:親鸞を読む
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