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「感じられる」以上、感じている誰かがいるか? [生きる意味(その92)]

(23)「感じられる」以上、感じている誰かがいるか?
 「“ぼくが存在を感じる”って言うと、ぼくと存在との間に<すきま>が生まれてしまって、ぼくは感じることもできるし感じないこともできるというニュアンスが生まれてしまうだろ。だけど、感じられることにはそんな裁量はきかなくて、否応なく感じられる。感じさせられると言うか。」
 「ふーむ。確かに“感じられる”には、有無を言わせないところがあるね。だけど…、こだわるようだけど、“感じられる”と言う以上、それは誰かが感じると考えるのが普通だろ。ぼくかきみか、はたまた彼か、とにかく誰かがいなきゃ感じられないよ。デカルトが“われ思う、故にわれあり”と言ったのは、そのことじゃない?何かを思っている以上、そう思っている自分がいる。」
 「何かを“する”以上、それをしている自分がいる。これはもう動かないね。行為だけがあって、その主体がないとは考えられないから。でも“感じられる”って行為かな?」
 「“感じられる”は確かに行為ではないよ。でも、ぼくらは何かを“する”時だけそのことを意識するんじゃなくて、何かが“感じられる”時もそれを意識しているよね。で、何かを意識しているということは、意識している誰かがいるということだ。意識だけがあって、その主体がないとは考えられないよ。」
 「ふむ。それって前に議論したことあるんだけど、“意識があるところ、必ずその主体あり”というように考えるのはデカルト的呪縛と言えないかな。ものを思う以上、思っている自分がいる、という発想。“思う”は一種の“する”ことだから、それでいいとしても、それが“感じられる”にまで拡大されて、何か意識があれば、そこにはその主体であるぼくやきみがいなければならないと思い込んでしまう。」
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