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たとひ法然聖人にすかされまゐらせて [『歎異抄』ふたたび(その29)]

(6)たとひ法然聖人にすかされまゐらせて

 この「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて云々」という文言は、親鸞の師・法然に対する確固不動の信頼を示していると受けとめられます。それはそうに違いありませんが、しかしこれを「人に対する信」とだけ受けとることはできません、そこに「仏に対する信」を見る必要があります。
 「人に対する信」と「仏に対する信」の対は、先ほどの「普通の信」と「本願念仏の信」の対とパラレルの関係にあります。つまり「人に対する信」は「こちらから与える信」ですが、「仏に対する信」は「むこうから与えられる信」であるということです。「誰かを信じる」というときは、その人が信じるに値するかどうかをしっかり吟味し、その上で「よし、信じよう」となります。しかし「仏を信じる」というときは、われらが仏を信じるというより、気がついたらもう仏の信のなかにあったということであり、この信は仏から与えられたものと感じられます。
 さて「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて云々」のどこに「仏に対する信」があるのでしょうか。
 親鸞が対面しているのは法然聖人という人であり、その「よきひと」から「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」との仰せをかぶっているのですが、その法然の仰せのなかから、法然の仰せを通して仏の仰せが聞こえてくるということ、これが肝心要です。聞こえているのは法然聖人の声です。これは間違いないことですが、ただ、その声の奥からというか、その底からというべきでしょうか、仏の声が聞こえてくる、「わがもとへ帰りきたれ」と。二河白道の譬えでいいますと「なんぢ一心正念にしてただちに来れ」という弥陀招喚の声です。そしてこの声が聞こえたということは、取りも直さず、この声にゲットされたことに他ならず、それが「仏に対する信」です。
 「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず」などと途方もないことばが出てくるのは、法然聖人の仰せのなかから、その仰せを通して仏の「帰っておいで」という声が聞こえているからです。

タグ:親鸞を読む
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