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『歎異抄』を読む(その86) ブログトップ

8月10日(金) [『歎異抄』を読む(その86)]

 「夕焼け小焼け」という童謡を取り上げ、「おかえりなさい」ということばにはしみじみとした味わいがある、「なむあみだぶ」とは阿弥陀仏の「おかえりなさい」という声ではないかと述べました。親鸞のことばでは「本願招喚の勅命」です。
 ぼくらが「ただいま」と言って帰っていくから「おかえりなさい」という返事が戻ってきます。ですから「ただいま」が先で「おかえりなさい」は後です。しかし本当は、すでに「おかえりなさい」の声が聞こえているから、「ただいま」と帰っていけるのではないでしょうか。
 もし「おかえりなさい」の声が聞こえていなかったら、「ただいま」と言って帰っていけない。秋葉原の事件を起こした若者には「おかえりなさい」の声が聞こえていなかったのではないか。いや、本当は聞こえているのだけれど、彼は聞こえていることに気づいていないように思えるのです。
 「ただいま」に「おかえりなさい」と応ずるのは人間の声です。でも「ただいま」に先立つ「おかえりなさい」は「いのち」の声です。この声が聞こえるからこそ、ぼくらは生きていけるのです。その意味でこの声が聞こえることは、ぼくらのもっとも原初的な経験と言えるのではないでしょうか。
 他のすべての経験が、それがあることによって成立するという意味でもっとも原初的な経験です。ぼくらが声を出せるのは、それに先立って「いのち」の声が聞こえるからです。「もうすでに」、「向こうから」、「いのち」の声「おかえりなさい」が聞こえているから、「これから」、「こちらから」、「ぼくら」が「ただいま」の声を出すことができる。

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