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「南無阿弥陀仏」のこえとなって [『浄土和讃』を読む(その152)]

(6)「南無阿弥陀仏」のこえとなって

 次の和讃は「諸仏証誠」と第17願との関係をうたいます。

 「諸仏の護念証誠は 悲願成就のゆゑなれば 金剛心をえんひとは 弥陀の大恩報ずべし」(第85首)。
 「諸仏の護念証誠は、弥陀の悲願が成ってこそ。堅い信心えた人は、弥陀のご恩に報ずべし」。

 ここで悲願とあるのは第17願です。「十方世界の無量の諸仏 ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめる)してわが名を称せずといはば正覚をとらじ」という願ですが、この願の持つ意味に注目したのは親鸞をもって嚆矢としなければなりません。この願で、阿弥陀仏をほめたたえて、その名を称えるといっているのは、阿弥陀仏の本願を証誠するというのと同じです。したがって『小経』に説かれる「諸仏証誠」は、第17願が成就されていることを意味しているのです。
 さてでは第17願の持つ意味とは何でしょうか。結論をひと言でいいますと、阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏」となられたということです。
 親鸞までは浄土教の諸師の眼はもっぱら第18願に注がれてきたと言えます。「本願を信じ念仏もうすものを救おう」というこの願に浄土の教えは尽くされていると考えられてきたのです。ところで第18願にそのように願われているということは釈迦が『無量寿経』において教えてくれました。ぼくらは『無量寿経』からそのように聞いたわけです。さてしかし、先回言いましたように、そのような願いがあると聞くのと、そのような願いを直に聞くのとでは天地の開きがあります。『無量寿経』からそのような願いがあると聞かされても、それが衆生に確かに受け止められる保証はありません。
 では本願を確かにみんなのもとへ届けるにはどうしたらいいか、法蔵菩薩はそれを五劫思惟したと書かれています。そして出された結論は、みずから「南無阿弥陀仏」の名号になるということです。阿弥陀仏としておさまってしまうのではなく、「南無阿弥陀仏」となり一人ひとりのもとに出かけていく。阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏」のこえとなるということです。これが第17願の意味です。

タグ:親鸞を読む
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