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「生かされている」 [「親鸞とともに」その12]

(12)「生かされている」

「ありがたい」に関連して見ておかなければならないこととして、「わたし」は無数のつながりによって「生かされている」ということがあります。「わたし」が無数のつながりをつくっているのではなく、逆に、無数のつながりが「わたし」をつくっているということで、そのことを「生かされている」と表現しているのです。この「生かされている」という言い回しは宗教の言辞においてよくあらわれ、とりわけ浄土真宗ではしばしばお目にかかるものですから、それに馴染んでいる人たちには何の違和感もなく受けとられるのですが、宗教とは無縁に生きている若い人たちには抵抗があるようです。ある大学の教員が学生にこの言い方についてどう思うか尋ねてみると、多くの学生が終末期の患者が何本ものパイプにつながれている様子をイメージすると答えたそうで、なるほどそういうものかと思わされました。

このような受けとめがされるのは、「生かされる」ということば遣いにその元があります。これは「生かす」に「れる」がついたもので、「れる」には受身・尊敬・自動・可能というさまざまな意味がありますが、先のイメージはこれを受身に受けとり、そこから「わたし」の意思に関係なく、一方的にはたらきかけを受けていると理解したと思われます。しかし無数のつながりが「わたし」をつくっていて、そのつながりが「わたし」に他ならないというのは、そのようなことを意味しているのではありません。「わたし」自身が生きようと思って生きているのであり、決して無理やり生かされているのではありません。しかし「わたし」が生きようと思うこと自体が、無数のつながりのなかでそのようにはからわれているということです。生きようという思いは紛れもなく「わたし」に起こっています、しかしその思いを「わたし」が起こしているのではないということです。

何年か前に国分功一郎氏が「中動態」に関する著書(『中動態の世界』)を発表され、それを読んだぼくは目から鱗が落ちる思いがしました。われらはいま「能動―受動」という文法の世界に生きていますが、遠い昔には「能動―中動」という文法の時代があったことを教えられたのです。「する」か、さもなければ「される」という二項対立ではない世界があったというのです。


タグ:親鸞を読む
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