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そんな気がする [『浄土和讃』を読む(その57)]

(21)そんな気がする

 おたまじゃくしはもともと蛙であり、ゆくゆくは蛙になることをぼくらは蛙の観察から知っていますが、ぼくらがもともと平等であり、ゆくゆくはまた平等になるとどうして言えるのでしょう。ぼくらはそのことをどんな意味においても知ることはできません。それを知覚することができないのはもちろん、それを想起することも予期することさえできません。そのための手掛かりが何もないのですから。
 でもそんな気がするのです。
 「おい、おい、また“気がする”かい。想像するだの、気がするだのと、そんな曖昧な話に付き合っていられないよ」という声がします。でも、どうでしょう、いま知覚していること以外は、想起することも予期することもみんな結局のところ「そんな気がする」だけではではないでしょうか。いや、昨日ここにわが家があったのは確かだし、明日もここにあるだろうことは確かだ、と言われるのに反対はしませんが、でもそれも程度の問題でしょう。明日もわが家があるような気がするだけで、その程度がかなり強いということにすぎないのではないでしょうか。今夜、何か天変地異によりわが家が突然消滅するかもしれません。ただ、その確率はきわめて低いというだけのことです。
 ぼくらはもともとは(前世では)平等だったような気がするのだが、どういうわけかこの世に生まれることでいま現に差別に苦しんでいる。でもまたゆくゆくは(来世では)平等になるような気がするのです。そのような気がするのは何の根拠もありませんが、でもそのような気がするのは確かです。見知らぬ方の「こんにちは」が「なむあみだぶつ」と聞こえるのも、そのような気がするだけで、どうしてそんなふうに聞こえるのかと言われても何とも答えようがありません。
 それが「他力の真実」として迫ってくるのです。「摂取不捨された」と感じる。それが「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」で、親鸞はそのことを正定聚ということばで説いてくれます。

タグ:親鸞を読む
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