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信心定まらないものは往生定まらない、のか? [「『おふみ』を読む」その36]

(11)信心定まらないものは往生定まらない、のか?

さて、この「おふみ」で気になるのは、「この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや」という箇所です。しっかりとした信心をえていないものは、浄土往生できようか、と言うのです。これからもこういった言い回しにしばしばお目にかかることになりますが、どうにも引っかかるのです。宗教によくみられる「脅し」がここでも顔を出しているように感じてしまう。

「信心の定まるとき往生また定まる」(『末燈鈔』第1通)のですから、それを裏返せば、信心定まらずば往生また定まらず、となるのは必然のような気もします。しかし、前にも言いましたように、この親鸞のことばは注意深く読まなければなりません。これは信心によってこれまで定まっていなかった往生がそのときに定まるということではありません。信心とは、それによって往生が定まる因ではありません。信心とは、往生がもうすでに定まっていることに「気づく」ことにすぎないのです。信心が定まろうと、定まらなかろうと、往生はもうすでに定まっているのです。ただ、信心が定まらないということは、そのことに気づくことができていないということです。

浄土の教えでは、一切衆生の往生が十劫のむかしに定まっています。『無量寿経』に、法蔵菩薩が一切衆生をわが浄土に往生させなければ正覚をとらないと誓われ、その誓いが十劫のむかしに成就して、めでたく阿弥陀仏となられたと説かれています。としますと、もうすべての人の往生は定まっているではありませんか。ぼくらは、そのことを信じようが、信じまいが、そんなことにかかわりなく、生まれるはるか以前に、浄土に往生できることが定まっているのです。文化センターでこのように話しますと、みなさん一様に怪訝な顔をされます、「えっ、そんなこと聞いてないぞ」と。信心が往生の因であると聞いてきたのに、いったい何を言い出すのか、と警戒の視線が飛んでくるのです。


タグ:親鸞を読む
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