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『歎異抄』を読む(その115) ブログトップ

9月8日(土) [『歎異抄』を読む(その115)]

 二つの謎はつながっています。つまりこういうことです。
 唯円はまず中序(のちに第10章となる部分)を書き、そして八つの異義を批判して、最後に結びのことばを書いた。そしてその後に「大切の証文ども」を添えようとしたのですが、その証文どもを書き写しているうちに、これは師・親鸞のことばだからやはり自分の異義批判の部分よりも前にもってくるべきだと考え直したと思うのです。そうしますと冒頭に改めて序文が必要になってきます。かくして一つの本に序文が二つもあるという不思議な体裁になってしまったのではないでしょうか。
 いずれにしましても、前半、第9章までと、後半、第18章までとでは、その性格がはっきり異なります。前半は親鸞聖人の語録で師訓編、後半は唯円の異義批判で歎異編と呼ばれます。普通は前半が大事にされ、後半は添え物程度の扱いにされがちですが、この本ができた経緯を考えれば、そしてこの本のタイトルからしても、後半こそ中心であると言わなければなりません。
 さて、第10章に戻りまして、まず「念仏には、無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑにと、おほせさふらひき」の部分です。
 「無義をもて義とす」とはどういうことでしょう。親鸞が関東の弟子に書き送った手紙の中に同じようなことばが出てきます。「“他力には義なきを義とす”と、聖人(法然上人)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば、義といふなり。他力は、本願を信楽して往生必定なるゆへに、さらに義なしとなり。」ここから「無義をもて義とす」ということばは法然の仰せであったことが知られます。多分法然はこれを繰り返し言われ、それを若き親鸞は深く受け止めたことと思われます。

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