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2月16日(木) [矛盾について(その562)]

 自分が生き残るために誰かに犠牲を押しつける側は、犠牲になる人のことを気の毒に思い、犠牲はできるだけ少ない方がいいと思うでしょうが、自分が犠牲になろうとは思いません。実際、沖縄と福島について言えば、こうなります。
 「多くの日本国民は、沖縄に在日米軍基地の四分の三もが集中している事態について、疑問ややましさを感じながらも、では、自分の住む地域でその負担を共有できるかと問われると、とたんに口ごもってしまう。同様に、地方の人々に原発のリスクが負わされていることに疑問ややましさを感じる人でも、では、自分の住むところに原発が来る、放射性廃棄物の処理施設が来るなどということになれば、これに賛成することができない。」
 これが著者の言う犠牲のシステムです。
 この本は問題を提起するだけで、それをどうすべきかについては踏み込みません。そこにむしろ著者の良心を感じるのですが、ただ、最後にこう言います、「だれにも犠牲を引き受ける覚悟がなく、だれかに犠牲を押しつける権利もないとしたら、在日米軍基地についても原発についても、それを受け入れ、推進してきた国策そのものを見直すしかないのではないか。いかなる犠牲もない国家社会が成り立つかどうか、これはここでは答えることができない問題である。しかし、それでも、軍事基地や原発のリスクを限りなくゼロに近づけていく、そういう政治的な選択は十分可能だし、それをめざしていく必要があると私は思う」と。
 この問題提起をうけて、ぼく自身が考えなければならないと思うことがあります。

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