SSブログ
「信巻を読む(2)」その9 ブログトップ

すでにつねに浄土に居す [「信巻を読む(2)」その9]

(9)すでにつねに浄土に居す

いつも言いますように、仏教の因果という概念は、われらが日常でつかっている原因・結果と微妙に、しかし根本的に異なります。原因と結果は時間的に分離されていますが、仏教の因と果はひとつにつながっています。いまの場合、本願という因と浄土という果は別にあるのではありません、本願のなかに浄土があり、浄土のなかに本願があるというようにひとつになっています。本願とは「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」ですが、その「ねがい」が実現した世界が浄土であり、浄土とは本願の世界です。ですから本願のあるところ、そこに浄土があり、浄土があるところ、そこに本願があります。

では本願はどこにあるかといいますと、他ならぬわれらの信心としてあり、それ以外のどこにもありません。本願と信心はひとつです。としますと、本願のあるところに浄土があるのですから、信心のあるところ、そこに浄土があるということになります。浄土はそれ以外のどこにもありません。かくして「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)と言わなければなりません。これが往生ということであり、それは決してここではないどこかへ往き生まれることではありません。往生とはいうものの、それはどこかへ往くことではなく、「すでにつねに浄土に居す」ことに気づくことです。

そして信心の人は本願の人であり、「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」をわが願いとしている人ですから、自分の周りにいる生きることに苦しんでいる人たちを救いたいと願わざるをえません。このように見てきますと、往相がそのままで還相であることは奇異なことではなくなります。往相とは、ここが浄土であることに気づくこと、浄土の光のなかを歩むことであり、還相とは、ここは紛れもなく穢土であり、みなそれぞれに生きることに苦しんでいると気づき、その人たちとともに生きようとすることです。この二つは二つにして一つです。信心の人は浄土の光のなかをともに歩みながら、同時に穢土の闇をともに生きるのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その9 ブログトップ