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罪福ふかく信じつつ [親鸞の和讃に親しむ(その105)]

(5)罪福ふかく信じつつ

罪福ふかく信じつつ 善本修習(しゅじゅう)するひとは 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり(第74首)

よしあしこそが大事とし、よしにつこうとするひとは、誓いうたがうそのゆえに、仮のすまいにいつまでも

「善本修習するひと」とは「自力称名のひと」のことで、そのように名号を称えることにより往生を得ようとする人は「疑心の善人」であると言われます。ここでまた「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」という「信巻」のことばを想い起こしたいと思います。善導は「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば正定の業と名づく。かの仏願に順ずるがゆゑに」と言いましたが、「一心に弥陀の名号を専念」していることを見るだけでは、その人に「真実の信心」があるかどうかは分かりません。「願力の信心」が欠けているにもかかわらず「名号を専念」していることも少なからずあるからです。その人が信心の人か疑心の人か外からは見分けがつきませんが、さてしかしそのこころの内はといいますと天地の差があります。

まず疑心の人は善人であると言われます。これはみずからを善人と思っているということで、なにしろ称名という善本を修習していると思っているのですから、善人に違いありません。一方、信心の人はどうかと言いますと「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」(『観経疏』)と思っています。自分のなかの我執という悪をじっと見つめています。このように自分をどう見るかという点で、信心の人と疑心の人ではまるで違います。そして自分の住んでいる世界をどう見ているかということでも両者はまったく異なります。すなわち疑心の人の世界意識は方便化土であるのに対して、信心の人の世界意識は真実報土です。疑心の人は「ほとけのいのち」を彼方に見ながら、いつかそこに往くことのできる日を夢見ています。これが「方便化土にとまるなり」ということです。一方、信心の人は「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、もうすでに「ほとけのいのち」に摂取されていることに気づいています。これが「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(『親鸞聖人御消息』第11通)ということです。


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