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声の主 [『唯信鈔文意』を読む(その23)]

(9)声の主

 「南無阿弥陀仏」の声はどんどん遡り、そしてついには阿弥陀仏に行き着くのでしょうか。ほら、やっぱり阿弥陀仏が「救い」、われらは「救われる」のじゃないか、と言われそうですが、実は、驚くなかれ、阿弥陀仏も「南無阿弥陀仏」から生まれてきたのです。
 そのことを親鸞はこの書物のもう少し後の方でこんなふうに表現しています、「この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらわれたまふ御かたちおば、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり」と。一如という「こころもおよばれず、ことばもたへた」ところから、阿弥陀仏はあらわれたというのです。
 この文をどう考えたらいいかは、そのときにじっくり検討するとしまして、ここで確認しておきたいのは、阿弥陀仏という超越的な救い主がいるのではないということです。阿弥陀仏に救われるのではなく、「南無阿弥陀仏」の声に救われるということ。
 しかし声がするからには、その声の<主>がいるはずじゃないか、と考えるのがぼくらの常です。その声の主が阿弥陀仏だから、結局のところ阿弥陀仏に救われるということじゃないかと。ここには、姿が見えたり、声が聞こえたら「なにものか」が存在するに決まっているというバイアスがあります。
 実体という呪縛。もう少し考え続けましょう。
 ここまでは阿弥陀仏の本願は「南無阿弥陀仏」の「こえ」であると述べてきましたが、それはまた智慧の「ひかり」でもあると言われます。ここで考えたいのは、「こえ」があり、「ひかり」があれば、そこには「なにもの」かがいるという、ぼくらの骨の髄まで沁み込んでいる固着観念についてです。


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