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自分より大事なもの [『歎異抄』を聞く(その96)]

(9)自分より大事なもの

 ぼくらは何より自分が大事だと思います。自分があるからこそ、他のすべてのものが意味を持ってくるのだと。自分がなくなれば、すべてが無になる。死の恐怖はここに淵源します。さてしかし、あるもののおかげで自分が生きていることができるとしますと、それは自分よりもっと大事ということにならないでしょうか。ぼくらはいろいろなものに依存して生きていますから、それらは何より大事なものですが、でもそのほとんどは替えがききます。水がなければ生きていけませんが、この水がなくても、あの水がある、というように代わりとなるものを探すことができます。
 ただ、替えのきかないものがひとつだけあります。そのひとつがなければ生きていくことができない、それが弥陀の本願です。「帰っておいで」の声です。
 そんなものがなくても生きていけるさ、現にぼくはそんなものはないけれども、ほれ、このとおりちゃんと生きている、と言われるかもしれません。その人は、宗教なんてなんで必要なのか分からない、と言うでしょう。ここには「必要」という発想があります。「世界は自分が生きていくために必要」という発想。自分が生きていくために衣食住は欠かせないが、宗教なんてなくていい、ということです。これは「自分が何より大事」、「自分があらゆることの基点」という前提にたっています。この前提があるかぎり、弥陀の本願はどこにもありません、「帰っておいで」の声なんてどこからも聞こえません。
 ところが、あるとき「自分が何より大事」、「自分があらゆることの基点」という前提が思いがけず外れるのです。自分で外すのではありません。自分で自分の前提を外すことはできません。気がついたらすでに外れているのです。そしてそのときに「そのまま帰っておいで」という声がしています。かくしてはじめて思い至るのです、自分よりもっと大事なものがあると、それがあるからこうして生きていることができるのだと。

タグ:親鸞を読む
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