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不退のくらゐにいたらしむる [はじめての『尊号真像銘文』(その22)]

(5)不退のくらゐにいたらしむる

 「自はをのづからといふ。行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり」の一文で「他力」が言いつくされています。あらためて「目覚め」を思い起こしたい。夢の中にあるとき、これは夢だとは思っていませんから、自分で夢から目覚めることはできません。自分で目覚めようと思うためには、これは夢だと気づいていなければなりませんが、夢だと気づくのはそれから覚めた後のことです。ですから夢から目覚めようとして目覚めることは不可能です。夢から目覚めるのは「みづから」ではなく、「おのづから」そのように「しからしめられる」しかありません。これが他力です。
 無明というマインド・コントロールから「みづから」目覚めることはできません、「おのづから」目覚めしめられるのです。
 さて、経文は「到」と「致」をつかいわけています、「みな悉くかの国に到りて」と「おのづから不退転に致る」というように。どちらも「至る」ですが、区別すれば、「到」は普通に「いたる」であるのに対して、「致」は「いたす」です。前者は自動詞、後者は他動詞という違いがあり、「致」は「いたらしめる」ということです。親鸞はその意を汲んで「如来の本願のみなを信ずる人は、自然に不退のくらゐにいたらしむるをむねとすべしとおもへと也」と解説してくれるのです。自分で不退のくらいに「いたる」ことはできません、本願力により「いたらしめられる」のです。
 経文はまず「かの国に到る」と言い、つづけて「不退転に致る」と言います。では不退転とは何か。親鸞はこう注釈してくれます、「不退といふは、仏にかならずなるべきみとさだまるくらゐ也。これすなわち、正定聚のくらゐ」と。龍樹は初地(菩薩が仏に至る階梯に52位ある中の第41位)が不退転地であるとして、こう言います、「問うていはく、初地なんがゆへぞなづけて歓喜とするや。こたへていはく、初果の究竟(くきょう、最終的には)して涅槃にいたることをうるがごとし。菩薩この地をうれば歓喜おほし」(『十住毘婆沙論』)と。この境地に至ると「たとひ睡眠懶惰(すいめんらだ、眠りこけ怠けること)なれども」、もう転落することなく、かならず仏となることができるのですから、「歓喜おほし」と言うのです。

タグ:親鸞を読む
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