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デカルトという人 [『ふりむけば他力』(その62)]

            第6章 われ思う、ゆえにわれあり

(1)デカルトという人

 これまでは他力の思想を仏教の枠のなかで考えてきましたが、ここで一気に視野を近代ヨーロッパへ広げたいと思います。
 近代ヨーロッパ哲学の祖とされるのがデカルト(1596年~1650年)で、今日に至るまでの近代ヨーロッパの精神文化の礎を築いた一人と言えるでしょう。そしてヨーロッパ近代の精神文化はわが日本を含めて世界を席巻してきましたから、今日の世界の精神文化の基礎となっているのがデカルト哲学であると言っても過言ではありません。そしてわれらにとって何より大事なのが、デカルト哲学のなかに他力思想の対極を見ることができるということです。他力の対極を理解することにより、他力の本質がより鮮明になってきます。
 さて、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」、ラテン語で“cogito ergo sum”(コギト・エルゴ・スム)こそ、近代の幕開けを告げる宣言と言うことができます。
 そこでこのことばの意味することを、デカルトがここに行きついた経緯を調べることによって明らかにしていきたいと思います。幸いなことにデカルト自身がそれを書き残してくれています、『方法序説』です。彼は「ヨーロッパの最も有名な学校(ラフレーシ学院)」に入り、そこで学ぶべきことはすべて学び、「私が仲間より劣ると見られているとは思わなかった」と言います。しかし哲学について言えば、「論争の余地がなく、したがって疑いをいれる余地のないようなことは何一つとして哲学には存在しない」と判断し、そしてその他の学問も哲学からその原理を借りている以上、あらゆる学問が堅固な基礎の上に築かれているとは言えないと考えます。
 そこで彼はこれまでの学問をすべて投げ捨て、基礎から自分で作り直そうと考えます。何という壮大な志かと驚かざるをえませんが、彼が学問の堅固な基礎を見いだすためにとったのが、「ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そのうえで、まったく疑うことができないような何ものかが、私の信念のうちに残らないかどうかを見る」という方法でした(方法的懐疑とよばれます)。で、まず疑わしいものとして取り上げられたのが感覚によって得られる知識です。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということばがありますように、感覚はわれらをしばしば欺くからです。そしてわれらの知識の大半は何らかのかたちで感覚に関係していますから、これによってほとんどのものが投げすてられてしまいます。

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