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『歎異抄』を読む(その107) ブログトップ

8月31日(金) [『歎異抄』を読む(その107)]

 そうだろうか、「生きてきてよかった」と思うなら、「もっと生きたい」と思うじゃないかと言われるかもしれません。でも、そうではないと思うのです。「もっと生きたい」と思うのは、「まだ十分生きていない」という思いがあるからで、今生きていることに十分満足しているなら、「もういつ死んでもいい」と思うのではないでしょうか。
 いい映画を観て感動した時、それがいつまでも続くことを望むでしょうか。「もういつ終わってもいい」と思うのではないでしょうか。
 さて、前に「生きる意味」は自分では調達できないと言いました。「生きてきてよかった」と思えるのは、「生きている意味はあるのだよ」という声が「向こうから」聞こえてきた時です。何度も同じ例を出して恐縮ですが、生徒から「先生の授業面白かった」と言ってもらった時に、「あゝ、生きてきてよかった」と思うのです。それがぼくにとっての「なむあみだぶ」です。こんなふうに、生きる意味が「向こうから」与えられて、「生きてきてよかった」と思えた時、「もういつ死んでもいい」と思える。
 ですから「死ぬ意味」も「向こうから」与えられるということです。
 さて、唯円が口にしたのは、念仏に出遭うことができ「そのままで救われる」と聞かせてもらえたのに、どうしてこうも心が浮き立たないのかという疑問です。「あゝ、生きてきてよかった」とも「いつ死んでもいい」とも思えないのだろうかと。唯円はこの疑問を口にするのをかなりためらったのではないかと思います。
 「お前はまだそんなところをウロウロしているのか、信心が足りない」と一喝されるのじゃないかとヒヤヒヤしながら質問したのではないでしょうか。ところが親鸞は「そうですか、あなたもですか。実はわたしも同じことを考えていたのですよ」と応じてくれた。唯円とすれば、どれほどホッとし嬉しかったことでしょう。そしてこの人にならどんなことも相談できると思ったことでしょう。

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