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一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟 [『歎異抄』ふたたび(その56)]

(3)一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟

 「わが父母の孝養」に対して「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」と高らかに謳いあげられます。われらは「わが父母」、「他の父母」と分別しているが、「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟」ではないかと言っているのです。われらは見知らぬ人を「縁もゆかりもない他人」と言い、ましてや人間ならぬ生きものについては「畜生」として別世界に突き放していますが、あにはからんや、みな「わが父母・兄弟」に他ならないと言うのです。
 幼い頃の不思議な経験を思い出します。何歳ぐらいのことだったか定かではないのですが、ぼくは家の窓から前の道を見るともなく見ていました。と、そこを一匹のみすぼらしい野良犬がトコトコ歩いてきて、ふと、ぼくの方を見たのです。その犬と目があったとき、ぼくのこころに不思議な思いが浮き上がりました、「どうしてこの犬は犬で、ぼくはぼくなのだろう」と。こういうことです、「この犬がぼくで、ぼくがこの犬であっても世界に何の不都合もないではないか」と思ったのです。たまたまぼくはぼくであり、たまたまこの犬は犬であるということ。ぼくはそのとき、ぼくがぼくであるという不思議にうたれていたのでしょう。
 もちろんそのときの幼いぼくは、いまここで述べたように理屈だって考えたわけではありません、ただ「何でアイツがアイツで、ぼくがぼくなんだ、逆さまだっていいじゃないか」と思っただけのことです。しかしこれを後でふり返ってみますと、そのときぼくは「たまたま」ということの不思議に触れたということになります。親鸞は『教行信証』の序で、この「たまたま」ということばをつかい、こう言っていました、「ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。〈たまたま〉行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、かへつてまた曠劫(こうごう)を経歴(きょうりゃく)せん」と。

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