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わがちからにてはげむ善 [『歎異抄』ふたたび(その61)]

(8)わがちからにてはげむ善

 「いのちの系統樹」こそ「ほとけのいのち」ではないでしょうか。ある方から、「南無阿弥陀仏」は「帰っておいで」という呼びかけだと言うが、いったいどこに帰るのか、という質問を受けたことがあります。慈愍和尚のことばに「あまねく道場の同行のひとを勧む。ゆめゆめ回心して帰去来(いざいなん)。とふ、家郷はいづれの処にかある。極楽の池の七宝の台(うてな)なり」とありますが、慈愍が「極楽の池の七宝の台」と言うのをぼくは「ほとけのいのち」と言い、さらにそれは何かと問われたら「いのちの系統樹」と答えたい。
 無数のいのちたちが縦横無尽につながっている、その同時的なつながりの総体、これがわれらの家郷です。
 これまで「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」について考えてきました。どうして「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」かというと、あらゆる有情がみな「世々生々の父母・兄弟」であるからということでした。しかし、その理由にもうひとつあります。それが、念仏が「わがちからにてはげむ善」であるならば、「念仏を回向して父母をもたすけ」ましょうが、そもそも念仏はそういうものではありません、ということです。
 念仏は「わがちからにてはげむ善」ではないということは、第8章で主題として取り上げられますが、先回りして考えておきましょう。
 誰かから「どうして念仏するのですか」と問われたら、どう答えましょうか。幸いそんな質問をする人は滅多にいませんが、もしいたらどう答えるべきでしょう。「むこうから呼びかける声が聞こえてくるから、それに応答しているだけです」というのがいまのぼくの答えられる最大限です。ジャック・デリダというフランスの哲学者は「すべての発信は返信である」と言います。誰かに電話をして「アロー(英語ではハロー、もしもし)」と呼びかけるのは、それに先立ってむこうから「アロー」と呼びかけられているからだというのです。呼びかけられているから、否応なくそれに応答しているのだと。
 念仏も、思いがけずむこうから呼びかけられ、もうそれに応答せずにはいられなくて申しているのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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