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「わたしが救われる」と「みんなが救われる」 [はじめての『高僧和讃』(その71)]

(14)「わたしが救われる」と「みんなが救われる」

 第35首で、往相の回向により「悲願の信行えしむ」とありましたが、今度は、還相の回向により「利他教化の果をえしむ」のです。分かりやすいことばに置き換えれば、往相回向により「わたしが救われる」のに対して、還相回向により「みんなが救われる」ということです。ここで考えなければならないのは、往相と還相、「わたしが救われる」ことと「みんなが救われる」ことの関係です。往くと還るという文字からして、まず往相があり、しかるのちに還相があるとみるのが自然です。まず往かなければ還ってくることはできません。ですから、まず「わたしが救われ」、そして「みんなが救われる」という順序になるものと思います。
 もし往相も還相もわれらの回向でしたら、つまり「わたしの救い」も「みんな救い」もわれらが努力して手に入れなければならないものでしたら、まず往相、しかるのちに還相となるのが順当です。津波に襲われ、海水が間近に迫ってきたとき、まずは自分が高台に逃げるでしょう。そして大声を上げてみんなに早くここに上がって来いと叫ぶなり、ロープを投げてこれにつかまれと言うでしょう。たしかに「いのちがたすかる」ことでしたら、まずは自分のいのちがたすかり、その上でみんなのいのちをたすけようと思うものです。しかし「魂が救われる」ことはどうでしょう。これもまずは自分、そしてみんなということになるでしょうか。
 魂の救いについては「救う」ということはなく「救われる」しかありません。どう頑張っても自分の魂もみんなの魂も「救う」ことはできず、「救われる」しかありません(もし「わたしはみんなの魂を救います」などと言う人がいれば、それは間違いなくイカサマ師です)。往相も還相もわれらの回向ではなく如来の回向です。そして「救われる」ことにおいては、まず自分、その上でみんなという順序は成り立ちません。その何よりの証が法蔵の誓願です。法蔵は「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」と誓いました。これは「みんなが救われなければ、わたしも救われない」という意味です。「われ人ともに救われん」ということです。

タグ:親鸞を読む
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